ソノホカ

【HBPメンバーインタビュー】第4回 山田友梨

2016年1月15日


HBPメンバー紹介のインタビュー企画、第4弾!

今回は、まちづくり・都市計画とは全然関係ない業種からHBPに転職し、活躍するゆーりです。

ひさお、しおりでインタビュー、しおりが記事にまとめました。
HBPに転職前の話やそれ以前の幼少期・中高・大学の話など、少し謎めいたゆーりの過去について語ってもらいました。

【HBPメンバーインタビュー】第1回 山本尚生
【HBPメンバーインタビュー】第2回 岸本しおり
【HBPメンバーインタビュー】第3回 園田聡

両親が営む酒屋で過ごした幼少期

山田友梨、1984年10月29日生まれ。

実家はマンションで、2棟ある戸数の多い14階だてのマンションに住んでいて、その道路をはさんだ向かい側に商店が並んでいる長屋があって、そこを一軒借りて酒屋をやっていた。お父さんは元々普通のサラリーマンで、輸入食品会社の洋酒部門で働いていたけど、なんか上司と喧嘩して、辞めて、酒屋をはじめました。笑。

お父さんは、短気っていうか、思ったことが口にでるというか、結構腹が立ちやすいたち。いらちやねん。父親に怒られたってのはあんまりないかな。末っ子だからってのはあるのかもしれない。家族に囲まれてかわいがられて、育ったんじゃないかなと思いますね。親はずっと商売しているから、お姉ちゃんとお兄ちゃんが面倒見てくれるとか。もうだから、お姉ちゃんにだっこされている写真とかめっちゃあるし。

保育園の時から、まず帰る先が店で、店でわーって過ごして、ごはん食べてから、寝にマンションに帰るみたいな。お父さんとお母さんで店を経営してたから、父親が配達に行って、基本、店で店番しているのが母親。そこでご飯つくって、食べて、みたいな。

西村酒店。店の前で父と。

西村酒店。店の前で父と。

 

小さい頃も今も人見知りだと思っています

小さい頃は、お店に人は出入りしていたけど、めっちゃ人見知りやったな。なんでやろ。お父さんが喋り過ぎていたからかな。反面教師みたいな。お兄ちゃんは割とよく喋る感じやな。お姉ちゃんは長女っぽいしっかりとした感じ。お姉ちゃんもよく喋る。どっちかっていうと、私は母より。私が家族で一番喋らなかったと思う。お客さんを見ていた記憶はある。「あんたよう見てるな」ってよく言われていた気がする。周りからみたらはつらつとはしていないけど、暗いとは思われていなかったかもしれない。しっかりしてるね、みたいな感じ。

生後100日頃の家族写真

生後100日頃の家族写真

人見知りはまだ克服していないと思うよ。いつくらいかな、中学位かな。人見知りっていうか、気持ちが伝わらない感が凄かったんですよ。中学時代は、学校自体が荒れていたから、うまくいかんな、みたいなのもあって。高校は専門学科に行ったので、それまでの学歴とか考え方とか似た人が集まってくるじゃないですか、言わなくてもわかることって色々ある。

やっぱ働きだしてからかな、意識したのは。高校では、結構友達もできて、楽しく過ごして、で、大学もそれの延長で行って。でも、社会人になってから、ファーストコンタクトの世間話みたなのがなんか全然できひんな、って思って。営業でとか、全然自分の知らない人に会ったりとかする状況になったときに、凄い、なんか、へたくそっていうか、何喋ったらいいんだろってところがあって、結構頑張った記憶があるもん。

私、受け答えとか暗いなって思って、明るくすること、明るくって、そんなあほみたいにはせんでいいけれど、多分人に与えている印象が、自分で思っているより暗いなって思って。暗いし、なんかこう、1個づつを真剣に考えてしまってて、会話見たいなテンポが凄い苦手やってん。周りからどう見えていたか分からないけど、自分では結構そう思っていた。

読むことも書くことも大好きです

小学校のときから映画と本が好きだった。映画も小学生3年生の頃に実写版『三銃士』が公開されて、それをお母さんに見に連れて行ってもらった。一般の映画館に行ったのもそのときがはじめてで、めっちゃおもしろい!わーってなって3日位興奮状態だったのを覚えてます。チラシ、ぴーって丸めて剣つくってシーンを再現していましたよ。お姉ちゃんもお兄ちゃんも好きだったと思うけどね。だから、一緒に映画見に行ったりとか、漫画もお姉ちゃんが持っているやつ読んでたし。映画は借りて家で観ていましたね。どんなジャンルでも観ていた。中学入った時に、記録つけていた時があって、観た映画と感想をちょっとだけ書いてたのかな。その時、年で100本は超えていたと思う。

9歳上のお姉ちゃんと、6歳上のお兄ちゃん。3人兄弟の末っ子です。

9歳上のお姉ちゃんと、6歳上のお兄ちゃん。3人兄弟の末っ子です。

あと、保育園の頃から紙に、お話書いてましたよ。日記じゃなくて、創作のお話。図書館で読んだ本の内容をもう一回ノートに書いていたりしていた。覚えて帰って。リメイクですよ。

そーいえば、中学に入って、文化祭で劇の脚本書いたわ。渡された脚本があまりにも面白くなくて、中学生劇みたいな、なんていうかおもしろくないじゃないですか。一般的に中学生向けにある台本を先生が持って来たりして、全然おもんないなっておもって、自分で書いて友達と一緒に持ってって、先生に。書いたのは1人で書いたのかな。書き方もわからんけどなんとなく書いて、持ってったら、採用された。よう採用されたわ。覚えてないってことは、消し去りたい過去なんかもしれん。強盗するみたいな話だったと思う。強盗っていうか、何かを盗みに入る。タイトルも覚えてないな。

本が好きで、高校は国語科、大学では歴史学科に進学

高校は国語科っていう日本で1個しかない専門学科に行きました。とにかく、すげー書かされるんですよ。感想文とか書くし、授業で表現の授業とかあって、コラム書けとか、小説書けとか、短歌書けとか、なんかそういうのと、書くことを練習したって感じですね。やっぱり国語科って名前がついているから、国語の先生に良い先生が多かったし。変な先生いっぱいいたもんな。達筆すぎてテストの問題が読めない先生とか。1年かけて平家物語をよむ授業とかあったし。

中国語べらべらの先生が一人居て、高校に。漢詩とかも中国の古い言葉の発音で、韻を踏むとかも凄い美しく聞かせてくれる先生がいて、漢文、凄い好きだったんですよ。もともと歴史好だったかも、昔から。母親がお寺とか好きで、連れて行ってもらっていたからというのもあるし、図書館の「世界の歴史漫画版」みたいなのも何周も読み込むくらい好きだったし。小説とか、中国の歴史小説とかも結構読んでて、それで大学は歴史学科を選びましたね。

高校時代は競技かるた部。部室件活動場所の和室。

高校時代は競技かるた部。部室件活動場所の和室。

大学で、2回生の一番最初の専門の授業で、「歴史とは何か?」って本を読んで、そこに書かれてて、なるほどな、って合点して今でも覚えているのは、「歴史とは過去のものなのか、現在のものなのかという議論が常にある。起こったことを見れば過去のものだし、それを見ている現在の歴史家からすると現在のものだ、と。どっちのものかというのが常に有るけど、過去の事実が過去の事実としてあるだけなら、それを歴史とは呼ばないし、歴史家が過去の客観的な事実なしに想像しているだけでは、歴史ではない。歴史は結局、過去と現在の終わりのない対話である。」みたいな一文があって、ほー、うまいこといいますな、と思った記憶がある。

母の死と向き合い、将来の選択

大学4年生の時に母親が亡くなった。高校3年生の時に手術して入院してたから、病院に行ったりとかはよくしていたかな。そのあと4年くらいは治療と再発を結構繰り返していて、だんだん仕事が出来なくなって、家で療養して、寝たきりっぽくなって。うーん、実質、弱っていっているって感じざるを得ませんでしたね。

大学に行ったときは、お兄ちゃんもお姉ちゃんも家を出ていて、おばあちゃんと、お父さんと母親の4人で家に暮らしていて、おばあちゃんは当時85歳とかで、お母さんはもうできるだけ長生きしてほしいけど、例えば20年後も生きているってことは、もしかしたらないかもしれないなぁという感じだし、お父さんも健康体とは言いがたいから、「なんか、やっべぇみたいな、人生何が起こるかわからないけど、私は多分自分が思っているよりも早く一人になるな」って思っていた記憶はすごいありますね。

当時は、お金を稼いで生活を確立させるっていうのもそうだし、そういう状況になる心構えをしておかなくては、という気持ちがすごくあった。今や父親も元気にしているし、おばあちゃんも生きているけど、当時は変な焦りみたいなものがあったかもしれませんね。

就活とかも、色んな会社みてどういうところにいこうかなって考え出したけど、東京に行くとかいう選択肢は自分の中から外していたし、とりあえず、母親は病気だし、もし、私がいなくなったりしたら、お父さんとおばあちゃんを置いて行く訳にはいかんしなみたいな。家から通える京阪神、という意識は結構あったかもしれませんね。当時の最善の解を探しているみたいな。そんなかでも、本好きだったし、関われる仕事って中で、最初に入った印刷会社がでてきたんだと思うんですよね。

水都大阪フェスレポーターに参加し、自分の生き方を見つめ直す

最初の会社は、5年いたしな。営業3年が大阪支社で、人材育成部が京都の本社の人事部門で2年弱、仕事の内容も違うし、場所も変わったから、同じ会社だけど、2カ所職場を経験した気分。仕事の基本は、本当にこの会社の人達と関わった仕事の中から教えてもらったと思う。営業の仕事も人材育成の仕事も、今も活きてるなぁと思うことよくあるよ。前の会社の人とは今でも繋がりもあったり、面白い人が沢山いて、みんなすごい魅力的だった。

5年間勤めた会社の本社の近代的な建物の裏に広がる、レトロな三角屋根の工場群が好きでした

5年間勤めた会社の近代的な本社建物の裏に広がる、レトロな三角屋根の工場群が好きでした

2012年末に退社したけど、2011年の秋に水都のレポーターをやってて、会社行きながら。その中で、そんなに会社にこだわらなくてもいいかなって、何となく思ったのかもしれない。レポーター養成講座には、講座が3つくらいあって、カメラとか記事の書き方とか。当時カメラとかを手に入れたばかりだったから、おもしろそう!って応募した。活動の中で、色んな人達が集まっているし、色んな生き方があるなって思って。私もこの会社で働き続けるということだけが選択肢じゃないなと。当時の仕事の中で、一番新入社員研修が好きだったけど、その年にちょうど業績悪化で新入社員の採用がなくなるっていう話もあって。結婚するかって話もあったし、これは違うことをするタイミングなのかもと思って、会社を辞めた。

次の予定は何も決めてなかったけど、会社の最終出勤日に知り合いの東京の出版社の人が、「仕事辞めたって聞いたんですけど、良かったらこの仕事やりませんか」って、仕事くれた。美術館の企画展の事務というまったくやったことない仕事をしてた。それが終わって、結婚して、のんびり過ごしていた所、楢さん(注1)に誘われて、当時ハートビートプランがしていた千林の仕事にたどり着いたと。

水都大阪フェスレポーター。個性的なメンバーに囲まれ、沢山刺激をもらいました。

水都大阪フェスレポーター。個性的なメンバーに囲まれ、沢山刺激をもらいました。

本を読んでいくように、まちの想いを読んでいきたい

最初はバイトとして千林の仕事を手伝い始めて、ちょうど正社員募集のタイミングがあって、泉さんに是非って言って頂いて、そうかって。最初は、いや、バイトでいいです、って言ったんですけど、でも、そうやって言ってくれることはありがたいことだなって、自分に何がむいているかってそんな分からないし、やってみるかと。

入ってからは、関わる人達が協力的やなって思った。なんか、ハートビートプラン、好かれてんなって。想いを共感出来る人達と結局最後は仕事していくことになるんだろうけど、そういう信頼関係を色んな所で築いている泉さんはすごいなって感じだったな。

この仕事で面白いのは、それぞれの個人の物語が大事にできるところじゃないかな。まちの人もそうやし、それぞれの個人的なまちをこうしたいっていう想いは、すごい個人の話が出ると思うんですよ。自分が生まれ育ったとか、バックグラウンドがどうやとか、ここで父親が何してたとか、自分はどこ出身やけど大阪には思い入れがあるとか、なんか、そういうものが聞ける場っていうのは、あまり多くないんじゃないかなと思うし。少なくとも、なかなか普通の会社員ではコミュニケーションとして、いきなりそこまで行き着かないわけじゃないですか。組織が大きいと、そういうものってそれぞれの個人の胸にしまっておくものみたな風になっていくけど、ここだと大切にできるなって。

「本を新しく読む」みたいなものと基本的な興味は一緒なんかもしれないですけどね。まちは本。さっきの歴史家と過去の事実の話じゃないけど、拾い上げない限り、表にでないものじゃないですか。「ここにこういうものをつくりたいとか」「子どもに残したいんや」とか、そういうものがちゃんと表に出て、まぁ別にその人が言ったとかやったとかいうことが残らなかったとしても、受け継がれて行くみたいなことがすばらしいと思っているんじゃないかな。

H26北野地域誌④

北野地域誌の取材中。まちの生きる声を一冊の本にまとめました。

 

注1:楢侑子さん。水都大阪サポーター養成講座のカメラの講師で、情報発信(企画・編集・執筆・撮影)や、まちづくりのコーディネーターやファシリテータを行っている。当時、ハートビートプランと一緒に千林商店街にて、1000ピースプロジェクトに取り組んでいた。

(インタビュー:ひさお、しおり 記事:しおり)

★HBPメンバーインタビュー
【HBPメンバーインタビュー】第1回 山本尚生
【HBPメンバーインタビュー】第2回 岸本しおり
【HBPメンバーインタビュー】第3回 園田聡

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

国内外の水辺の動きや水都大阪の活動がぎゅっとつまった『都市を変える水辺アクション』絶賛発売中!

『都市を変える水辺アクション:実践ガイド』(共著:泉英明/嘉名光市/武田重昭)

タグ: ,