ソノホカ

【HBPメンバーインタビュー】第1回 山本尚生

2015年8月12日


まちに関わる仕事をしている中で、
大切なことの一つは、まちを生きる人たちの言葉にじっくりと耳を傾けることかもしれません。
それぞれの方々が自分の言葉で語る、地域への思い、人生、仕事、家族。
そこに優劣はなく、まちを作ってきたのはそのまちを生きてきた人たちなのだなぁと強く感じます。

そしてまた対話を繰り返していく中で、私たちも関わる方々から様々な質問を投げかけられます。
「どこで生まれたの?」
「これまでどんな人生を送ってきたの?」
「なぜまちづくりの仕事をはじめたの?」

改めて質問されると、自分のことを語る難しさに考え込んでしまったり、
また、同じ事務所で働くメンバーのことなのに、良く知らない一面があることに気付かされたりします。

そこで、ハートビートプランで働くメンバーの紹介も兼ねて、
お互いにじっくりとインタビューをしてみました。
これから数回に分けて、インタビュー記事をUPしていきます。

トップバッターはハートビートプラン歴7年、一番のベテランメンバー、ひさおさんです。
ゆーり、しおりの後輩女子2人でインタビュー。
私、ゆーりが聞き書き(※)の手法で記事にしました。
細やかで家族思いの尚生さん、故郷への思いや、仕事を始めたきっかけ、今後の展望などを語ってくれました。

※聞き書き…
語り手と聞き手が対話を重ねて、語り手の人生や思いを「話し言葉(聞き書き言葉)で文章化」していく共同作業です。

 

同級生は14人。鳥取で一番過疎化の進んだ地域で生まれ育った

山本尚生です。1984年3月22日生まれ。鳥取県八頭(やず)郡若桜(わかさ)町出身です。

山本家は代々この土地に住んでいて、わかってる範囲では15 代、江戸時代が始まるくらいまではさかのぼれるらしい。
親父は今はボイラー技士。おれ、おとなしくて手先が器用なところは親父似かな。元々は印刷会社に、その後デザイン会社に勤めていた。看板とか、スキー場のキャラクター、地元のイベントのロゴとかは親父の作品だと聞いたことあるなぁ。本当かな、と思うけど。本人は全然言わないから(笑)

母親はパートで縫製工場で働いていてる。おれの見た目は完全に母親似やな。フィーリングが合うのは母親、価値観みたいなのが似ている気がする。

小学校は同級生が14人しかいなかった。山奥で、1キロくらいごとに村があるところ。うちの村には同級生がいなくて、ひとつ上(かみ)の村と下(しも)の村の子たちとはよく遊んでたな。川で泳いだり、池をつくったり。夏休みとかは、半分外で遊んで、半分は家でゲーム。外で遊んでても3時くらいには川は寒くなるような地域だったから。
友達は多かった方だと思う。喧嘩はあんまりしないし、中立というか。誰かと仲良かったら誰かと仲良くしない、とかはなくて、みんなと関係なく遊んでた。

実家周辺の風景、田植えシーズンが美しい

小中高は家から一番近い学校に行った。この村を出たい、という心境にも高校の最後まで特にならんかったな。コンビニもなかったけど、なくて当たり前だと思ってたし。この村のここが好きだ、みたいなのもなかったけど、なんかちょっと「たいぎいな(退屈だな)」と思ったら自転車で家の周りをぶらぶらするのが好きだった。

大学で大阪に来ようと思ったのは、1回家を出ようと思ったから。出るなら都会の方がいいかなぁと。でも東京まで出ると鳥取に帰ってくるのが大変になるかなぁて。じゃあ関西やなと。

大阪大学の地球総合工学科を志望したけど、どんなことをするところか全然わかってなかった。でも当時「シムシティ」とかやってて。それと「A列車で行こう」ていうプレステのゲームがあって。線路を敷いて、電車を走らせて駅を作って、それによって駅前に家とかが建っていく。どう線路をひいてどうダイヤを組むか、というのでまちを発展させる、ていうゲーム。これにはまってて、まちに興味があったのかな。

あと、鳥取県は日本で一番人口が少ないし、自分が住んでいる若桜町は鳥取県の中でも一番過疎化が進んでいる地域だということもあって。うちの前を国道が走っているけど、小さいころと高校時代を比べても交通量が減っていると感じてたし、将来この場所がどうなるかとか考えた時に、これは問題があるな、と思って。ばくっとした興味で。

 

まち、世界、自分への興味と迷い

一浪して大阪大学に入学して、2回生で「環境」を専門分野に選んだ。「環境」いうと水質汚染とか温暖化とかそういうものを想像しやすいんやけど、入った研究室は「都市環境デザイン」というのがメイン。民俗学的な要素もあって、歴史や背景を踏まえつつ、今起こっている問題を読み取って解決策を提案する、という、今の仕事に近い所だった。学生のときは今よりももっと分かんなかったけどね。これが何になるのか、何をしたらいいのか。

大学時代は、自分は何が特徴なんだろう…何が好きなんだろう…と思って色々やったな。1回生の時は、サークルの体験とかいっぱい行ったよ。バイトも面白かったけど、バイトで忙しいとかは違うよなぁって。1回生の春休みにアメリカにホームステイに行って、そこで出会った友達がいろいろ視野が広いなぁと感じたのもあって、「関大ハビタット」っていうサークルに参加するようになった。

関大ハビタットは、海外の貧困地域に行って家を建てるっていう活動で、自分はマレーシアとインドにそれぞれ2週間くらい行った。そんな期間じゃ一棟の家は建てられないんやけどね。現地の人の家に寝泊まりしたり、ゲストハウスに泊まったりしながら、家を建てる。家の作り方は国によって違う。そもそも基礎が出来ていない所もあるから、木材で地面に杭を打つようなこともあったし、インドはレンガ造りだから、言葉も通じない現地の職人さんに身振り手振りで教えてもらってセメントを塗ったりしてたな。家を建てることも興味はあったけど、素の海外の生活を見てみたい、っていうのがそもそもの動機だった。

でも、この活動にどんな意味があるんだろ、と思って現地のコーディネーターの人に聞いたこともあったよ。だって派遣される人数も限られているし、渡航費用もかかるわけだし、その分のお金を寄付してもらった方がよっぽど嬉しいんじゃないかなと思って。その人がいうには「マンパワーと」「啓蒙活動」が目的だって。自分たちで貧困地域の現状をみて、自国で状況を広めたり、今後も活動に協力してもらうことに価値があるということだった。

このサークルで今の奥さんにも出会ったよ。一緒に現地に行ってた。「それが目当てだったんだろ」ってみんなに言われるけど、違うよ(笑)

Kandaiハビタット、マレーシアで家の建築活動

Kandaiハビタット、マレーシアで家の建築活動

 

 

泉さんとの出会い

故郷の鳥取のことは、大学時代を通して頭にはあった。どの地域に興味があるかと言われれば山間地域かな、っていう、うっすらしたものだけど。でも地元のイメージがあまりにも強かったから、山間地域に頭が行きがちで、それに固執して視野が狭くなっていてはまずい、という思いもあった。

3回生の時、授業で「まちづくりコンサルタント」という職業が紹介されていた。「この仕事はおせっかいな人に向いています」って先生が言ってて、へぇ~そんな仕事もあるのか、自分に合うのかもしれないなぁと思った。道を聞かれることが多かったり、困っている人がいたら、知らない人でも気になる、みたいな所があったから。

泉さんに出会ったのもその辺り。ある先生が自分の同級生を集めて、10年後のあなたたちはこういう仕事をしているかもしれません、という講演会をやって、その時に、まちづくりコンサルタントとして泉さんがスピーカーで来てた。その話は聞けなかったんやけど、先生に頼んで泉さんを紹介してもらった。

最初はどういう仕事か知らないから、勉強させてほしい、って。じゃあ現場に一緒にいってみよう、て泉さんが言ってくれて、高松とかに行ってた。現場のイベントを手伝ったり、地元のおっちゃん達と一緒に飲んだで怒られたり、いろいろ体験したよ。そのころ泉さんはバイクに乗ってたから、後ろに乗っけてもらって打合せに連れて行ってもらったり。最初は勉強しに行ってたけど、そのうち、ハートビートプランでバイトとして働く、という話になった。大学3回生から実質2年くらいバイトしたよ。

実は、バイトをするかどうか、ちょっと迷った。バイトをすることになったら、そのまま就職するんじゃないかなと思って。道筋がなんとなく見えたのかな。だから彼女(現在の奥さん)に、このままいったら就職すると思うけど、バイトに行っていいか?て聞いたのは覚えてるな。

泉さんの引力も強かったし、3回生のころは自分のことを考えてる時期だった。「就職」「結婚」「実家に帰る」というのをどう組み合わせていこうかって。結婚はしたいけど、実家にも帰りたい、仕事もどうしよう、って。

泉さんには、その辺りのこと、全部喋ってたな。いきなり地元に帰っても何も出来ないだろうから、こっちでスキルを身につけてから帰りたいというぼやっとした思いもあったから、その話もしてたと思う。同じ話を大学の先生とかにすると「そんな自分が手頃な時に帰りたいけどスキルをつけたい、ていう都合のいい話を受け入れてくれる会社があるか」って言われてた。でも泉さんは「いいよー」っていう感じで受け入れてくれたかな。

何か決める時には人に影響されてるなと思う。〇〇が好き、とか物事にのめりこむというよりは、この人面白そうだから一緒にやりたい、とかついて行きたいとか、そういう感覚が強いと思う。

 

2009年に正式に入社。メンバーは泉さんとふたり。

2009年に正式に入社。メンバーは泉さんとふたり。

 

今年でハートビートプラン入社7年目。数人で始めたことが、いつの間にか沢山の人の自分ごとに

2009年に大学院を卒業して入社したけど、最初は月給でお金をもらって仕事する重みをすごい感じたな。泉さんの何分の一の働きも自分は出来てないな、大変だなと思ってたよ。

ちょうど水都大阪2009の頃でOSAKA旅めがねの準備とかしてた。マップをつくったり案内人を育成したり、ほとんどお金にならない割に時間も手間もかかる仕事だった。でもやってたのは「着地型観光」がこれからのまちづくりの手法の一つになる、これをいまやっておくことが今後の仕事につながる、っていう泉さんの考えからだったけど、本当にこれが今後の仕事になるんだろうか?って当時は思ってたなぁ

でも、その時やっていたことが、ここ2、3年で膨らんできたなと思う。仕事の内容はもちろん、社員の人数、関わる人の数とか関係性の面でも。

就職した当初は自分の手元しか見る余裕がなかった。へこたれることも多かったし(笑)入社した時と今を比べたら、成長できたと思うよ。ちょっとゆとりが持てるようになった。個々の作業や調整の話が降ってきた時に、自分にできるかできないか、自分にできなかったら誰にできるかとか、今は出来ないとか、そういう全体をみた判断ができるようになった。何か起こった時に判断が出来ない状況が一番あたふたするからね。

それは自分のスキル的にも出来る範囲が膨らんできたこともあるし、信頼して話が出来る人が増えたからだとも思う。泉さんがいなくても1対1で話が出来るようになってきて、それがゆとりにつながってるのかな。

今年7年目に入った。

この仕事の醍醐味を話すのはいつも難しいけど、自分が最前線にたって指揮をとるというよりは、関心のある数人の人たちでプランを作っていく小さな動きが、気が付くと広がって地域にインパクトを与えている所かな。まちゆく人からみたら、うちらがやっているとは分からないけど、影の立役者、みたいな。中之島漁港とかでも、最初は手弁当で関係者だけであくせく準備してイベントとかをやってたけど、今はTVでも放送されて、全然知らない人でも「行ってきた」とか「知ってる」とか言ってくれるのは、面白いなぁと思うよ。恰好つけて言えば、「数人で始めたことが、いつの間にかたくさんの人の自分ごとになってる」っていうところが醍醐味かなぁ。

建設中の中之島漁港 桟橋デッキにて

建設中の中之島漁港 桟橋デッキにて

 

故郷・鳥取へ。次のステージへ行くことで、また新しい発見が待っている

今後は数年のうちに鳥取に戻る予定。いつか地元に戻るというのが、だんだん現実的になってきて、次のステージに行こうかなという気持ちにはなってる。とはいってもまだ全然収束するイメージじゃなくて。一回戻って地元で何か関わりたい、という思いを実際に行動に移してみないと、次のステップアップはないんじゃないかと思って。

実際帰っても、思うようにはいかないだろうし、逆にその中から地元じゃなくて世界に出たいって思うようになるかもしれない。まあそれは海外に出てまた日本に戻ってくるのか、移り住んだりするのか、まだ分からないけれど。その手前の段階として、地元に戻るっていうのは、いるんじゃないかなと思ってるよ。

焦りがちなんよね、おれは。あんまりわかってないし調べてもないのに、早く次に行きたがろうとするんよ。早く結婚したいとか、早く子供が欲しいとも思ってたし。でも結婚して子どもが出来たことで、新しい世界が広がって、それまでとは違うつながりが出来たというのもあるし。

次のステージにいくことで、また新しい発見が待っていると思うな。

 

 

(□インタビュー:ゆーり、しおり □記事:ゆーり)

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